夏休み

ここのところ、雷と雨が毎日の様にやってきて、少々涼しいフロリダ。
それでも連日最高気温は35度あたりをいったりきたりだ。

今夏は日本に行くチャンスも逃し、
長期休暇の計画は煮えきらず、
暑いフロリダの夏を一日一日、どうにかやり過ごしている。


平日の午前中は、息子2人とお勉強の時間。
車屋の事務所で店番の傍ら続けている『親子教室』では、
6歳の長男の「ひらがな」読み書きがだいぶ上達してきた。
1年生用の教科書とワークを使って読解にも取り組んでいるが、
日本語の理解にはまったく不自由はない様子で、
私が質問を読み上げれば、すらすらと正解を答えられる。
4歳の次男は幼稚園レベルのワーク・ブック(英語)を買ったばかり。
大喜びで意欲的に取り組んでいる。
アルファベットをなぞったり、色を塗ったり、数を数えたり。
動物が出てくるページは特に大喜びでやっている。


午後になり、時間を持て余して退屈すると兄弟ケンカが始まる。
このお決まりパターンを破るべく、
今週から「態度チャート」を取り入れてみた。
一番上に長男、次男の名前を書き、
その下に午前9時~11時、
午前11時~午後1時、
午後1時~3時、
午後3時~5時と書き入れた。
「ケンカをしない」「散らかしたものは片付ける」など、
求めている態度を言い渡した。
2時間ごとに2人の態度を評価する。
態度がよかった場合は名前の下にマグネットを1個貼り付ける。
マグネット1個でパソコンで遊べる時間30分獲得、
2個でDVD観賞30分獲得、
3個でシールを1枚獲得、
4個でパソコンで遊べる時間が1時間に伸びる。
シールを5枚獲得したら、リクエストを1つできる。
例えば「日曜日に○○へ連れて行って!」など。
ただし「○○を買って!」というのは、なし。
さて、これで少しはケンカが減るだろうか。


夕方には長男の空手と柔術へ1時間。
次男は私と観覧席で本を読んだり、おもちゃで遊んだり。
「次男も空手やってみたら?」と勧めてはいるが、
本人は「もっと大きくなってから」と言い続けている。
どのくらい大きくなるつもりか。


子ども達が寝静まった頃、私は夜な夜なパソコンに向かい、
6月最後の週に計画している3泊4日旅行の下調べと、
8月の空手大会に合わせたバケーションの予定を立てている。
決断力がないのか、情報に惑わされやすいのか、
あっちこっちと見比べている間に、どんどん時間が過ぎ、
気付けば連日、夜更かしばかりしている。


長い長い夏休み。
世の中の人々は、どう過ごしているのだろうか?

イランの香り

蜂蜜おじさんがやってきた。
注文していた蜂蜜を持ってきてくれたのだ。

いつもおいしいものを沢山持っているおじさん。
彼の野菜畑で取れたトマトやピーマン、
通りすがりに見つけて採ったと言うアフリカン・マンゴー、
見た事のないラベルが貼ってあるザクロ・ジュースの大瓶。
気前良く「あげるよ、あげるよ」と言うので、
なんだか悪くて仕方がない。


イランには「ターロフ」と呼ばれる習慣がある。
日本語一言では言い表しにくいが、
「社交辞令」と「気遣い」と「遠慮」をひっくるめたようなものだろうか。
周りの人に気を使って、食べ物や飲み物を勧めるのもターロフ。
遠慮して断るのもターロフ。
(初めてイランへ行く前に読んだイラン紀行本には、
「3回勧められたら本気で振舞いたい、というサインだから、
2回断ってからなら受け取ってもいい」
というターロフのマニュアル的記述があった。)
この習慣が店先でも繰り広げられるので要注意だ。
イランで物を買って、レジの売り子が「あなたにはタダで差し上げますよ」
と笑顔で言っても、鵜呑みにしてはいけない。
買い手も笑顔で「またそんな。いくらですか?払わないわけにはいきませんよ」
と切り返さなければならない(という暗黙のルールがあるのだ)。

アメリカ在住のイラン人の間でも、このような会話は日常的にやり取りされている。
私もイラン人宅を訪問する時には、日本人の礼儀正しさに、
さらなるターロフ・レーダーを張って、
お茶のおかわりや振舞われるお菓子をやんわり断ってみたりしている。


そんな文化的背景がサッと脳裏をよぎって
「おじさん、本当にタダでもらっていいの?ターロフは抜きだよ!」
と言うと、おじさんは豪快に笑って
「ターロフ抜き!抜き!」。

そして最後にもう一つ、ターロフ抜きのプレゼントをくれた。
イランから持ち帰った「カルダモン」だ。
なんとなく聞いたことはあるけど、見たことないなぁ、
と思いながら、瓶の蓋を開けるとふ~わりと独特な匂いが立ち上った。
あぁ、イランの香り!
イランで振舞われるお茶や茶菓子を口に入れると、
この香りと味が口いっぱいに広がるのだ。
懐かしいなぁ。

自宅に帰って、カルダモンについての解説を読んでみた。
カレーに入れたり、お菓子に入れたり、そして中東ではお茶やコーヒーに入れられるそうだ。

強めの香りなので、好き嫌いはあると思うが、
ショウガ科だからだろうか、私にはクセになりそうな香りなのだ。
(ちなみに私は無類のショウガ好きで、妊娠中などはショウガをむさぼり食ったものだ。)

早速カルダモンをティーポットに入れて、お茶を沸かしてみた。
ティーカップを口に運んで一口飲んだとたん、
イランの思い出や、さらにはイランで感じていた気持ちが、
香りと共にふわ~っと胸中に甦ってくる。

沢山もらったカルダモンの実。
これからとうぶんの間は、ティータイムの度に第二の故郷に思いを馳せることになりそうだ。

あなたならどうする?~フロリダ娘考~

同テーマで書いてきた「ドクター・ペッパー事件」。
3回も連載するほど重要な問題か?!と思われる方もいらっしゃるだろう。
最終回は長文になってしまったが、まとめとして、お付き合い頂ければ幸いである。


ドクター・ペッパーを巡る一件がさも重大か、と問えば、そうでもない。
しかし単純な事件であるだけに、人間模様が如実に現れている。

『慣れ』とは怖いもので、人間は長く付き合っていると甘えが出て来る。
一緒に働き始めた頃はお互い気を遣い合い、相手を喜ばせようと務めるものだ。
しかし段々と慣れてくると、不満な部分が見えてくる。
最初に感じる距離感が近づくにつれ、相手を尊重する気持ちも崩れがちだ。
「ずっと続けられないことは、最初からやらない方がいい」とはどこかで聞いた名言だが、
最初は善意や優しさで始めた行為も、段々と「○○してやっているのに」と見返りを求めるようになる。
例えば。
オスカーはステイシーの勤務日に毎回ランチをおごっている。
そういう契約で始めたわけではなく、最初の頃はステイシーも悪がって
「自分の分は自分で払うから」と言ったり、
「5回に1回は私に出させて」と私にこっそりお金を渡したりしていた。
オスカーは現在もランチをおごる事に対して全く不満を感じてはいないが、
こういう事件で缶ソーダ1本に目くじら立てられれば、
「いつも昼ごはんをおごってやっているのに」という気持ちが湧くのは仕方がないかもしれない。
(そう発言したわけではないのだが。)
ステイシーは毎回のランチをごちそうされるのが当たり前になってしまい、
「私のソーダよ!」という台詞が出たりもするのだ。

さらに『文化の違い』という問題も大きく関わっている。
オスカーは「自分のものでも人にあげる」という信条の人間だ。
イランを訪れると、これが文化であることを強く感じる(あるいはイスラム宗教の核の部分である、とも言えるだろう)。
自分の家に食べるものがなくても、そんな事はおくびにも出さずにお客様をもてなす。
そしてそれは家族の中に弱者(子どもやお年寄り)がいたとしても、他人様を優先的に考える。
私が田舎で育ったからかもしれないが、この感覚はよくわかるし、
今、旦那にそういう対応を求められても、それほど不自然さは感じない。
もしドクター・ペッパーが私のものだったら、迷わずケニーに差し出していただろう。
さらにイラン人は自分の汲んで来たコップの水でも、両隣の人間に差し出し、
「お水をどうぞ」とやってからごくりと飲むのが礼儀、という
礼儀作法に厳しい日本人も真っ青の礼儀文化を持っているのだ。
それを知る由もないステイシーは「自分のものは自分のもの」という根っからのアメリカ的個人主義だ。
オスカーがステイシーをごく近しい者(ケニーよりは確実に近い存在)として、
自分の慣れ親しんだ「身内感覚」でステイシーをとらえて行動したとしても、
ステイシーにとっては「私の物を勝手に盗った」という気がするわけである。

私が2人の諍いを見るとき、どうしても考えずにいられないのが『身分』や『役割』的なことだ。
日本文化で育ってきた私にとって、年上であり、仕事の質も量も自分の上を行くケニーに対して、自分の所有権を主張する自信がない。
さらにもし私の上司が自分のソーダを他の人に差し出したら、ステイシーの様にソーダを死守できるか疑問だ。
ステイシーの様な確固とした平等意識が、なかなか身につかない。
「差別」に敏感なこの国では、寛容で包容力のある対応を女性に押し付けるのも嫌われるだろうが、
母親や妻が「いいよ」と自分を差し置いて回りに与えるという姿に女性的なオーラを感じるのは私が古風なのだろうか。
(そういう態度をステイシーに求めている訳ではない。)
この観点から見ると、沢山頂いたコメントの過半数が、ステイシーのソーダ所有権や飲みたい意思を尊重するもので、私としては少し意外であった。

最後に『感情』という厄介なものが絡んで来る。
たかが1本のソーダでここまでお互い感情的になってしまうのは、日ごろから溜まっている鬱憤があるに違いない。
私は2人の中立的立場として、オスカーからもステイシーからも愚痴を聞いている。
感情と感情がぶつからない為の、唯一のコミュニケーション手段として使われたりする。
しかし「ステイシーの肩を持っている」などという、あらぬ嫌疑がかけられてしまったり、
問題が余計にややこしくなったりすることもある。
人間は常に何かを感じ、その蓄積は無視できないものとして、何かの時に一気に噴出して来るようだ。


『慣れ』『文化』『身分』『役割』『感情』と、様々な要素が絡まり合うドクター・ペッパー事件は、私にとってとても興味深く、色々と考える機会を与えてくれた。
人事だから冷静に分析でき、同じ要素が原因で苛立ったり、衝突したりしている自分を省みることができた。
自分の感覚はオスカー寄りだと感じるが、ステイシーの主張もどこから来ているのか理解できる。

この先、オスカーとステイシーの関係がどう発展していくかは、私の采配ではない。
私という存在も、2人の間の「要素」の一つでしかないからだ。
こうして皆さんに知恵を貸して頂いて考えを整理できた分、双方にとって「いい要素」として貢献できればと思う。
ありがとうございました!