移民家族 ~反省と考察~

4回に渡って書き連ねた移民家族の物語
最後に予想だにしなかった展開となり、本当にショックを受けた
母に電話で話を聞いてもらい、
日本人のお友達、アメリカ人のお友達、イラン人のお友達、
イランに住むオスカーの弟にも(オスカーを介してだが)この出来事を聞いてもらい、
そしてブログに書く事で、ようやく気持ちの整理がついた。

ブログに(またMixiやEメールを通じて)コメントを寄せてくださった皆さん、
ありがとうございました!


「もう二度と連絡して来ないで!」と言われた夜以降、彼らからの連絡はない。
ただ、その夜遅くに、Rさんの父親からEメールが届いていた。
(私は、翌日の昼過ぎまで、それに気づかなかったのだが。)
「父親に全部言いつけてやる!」と言っていたRさんが帰宅してすぐに告げ口したのだろうが、
父親はその件に全く言及してもいなければ、私への非難も、謝罪の言葉も何もなかった。
「できる限りの事をしてやってくれ。娘を助けてやってくれ。」
と言うような内容の事だけが、書いてあったそうだ。


あれ以来、駐車場でのシーンを自分の中で何度再生したか知れないが、
自分は間違った事は言っていない、相手に悪いこともしていない、と
確信が持てるので、後ろめたい気持ちはない。

国籍を問わず、色々な人に聞いてもらったが、皆が皆、
「その人はおかしい!」 
「ありえない!」と
口をそろえて言っている。
イラン人女性に話した時でさえ、あまりの無礼さに、彼女は息を飲んでいた。
Rさんには、異国の地で他人の家に暮らさなければならないストレスがあったとは言え、
あの感情的爆発は常軌を逸した言動だったと思う。

ただ、その背景には文化の違い、私達が至らなかった点もあるのではないか?

例えば私が家に一緒にいたり、毎食ご飯を作って食卓に並べなかったこと。
イランでは「お客様」が来たら、最高のもてなしをするのがマナーであり、
それをしなかった私達は歓迎的でなく、むしろ「失礼」だったのかもしれない。
私は「好きな時に自由に食べてね」と言えば十分としていたが、
皿に乗せた料理を相手に押し付けてこそ、
「食事を勧めてくれた」という事になるのかもしれない。

イランには「ターロフ」と言う社交辞令の様な文化がある。
ゲストはお茶を勧められたら遠慮して断り、
ホストは断られても勧めて勧めて、最後に出す、と言うのは、
双方がターロフを使っている典型的な例。
日本文化にもこれに似通ったやりとりはあると思うが、
日本の遠慮が相手の気持ちを読んで、汲み取るのに対し、
イランはこれを言語化してアピール、アピールしてなんぼ、と言う気がする。
だからRさんに対しても、
「あなたが来てくれて嬉しいわ、ずっといてね」とか、
「何か不自由なことはない?あったら遠慮せずに言ってね」とか、
ターロフ・シャワーを浴びせなかった私は気の利かない女だったのだろう。

そしてあの、「私の男に触らないで」について。
これは私にとって、完全な不意打ちだったが、
イラン人にとってはある程度、常識なのかもしれない。
女性が体を布で覆って、髪や肌を見せてはいけない、という戒律にしたがって生きていれば、
自然と体を神聖化して捉えるだろうし、
自由恋愛がそう簡単にできない社会では、
女性にとって夫は人生でたった一人の伴侶、つまり「自分の男」であるはずだ。
だから他の女が見るのも、触れるのも気に入らない、という気持ちは
多かれ少なかれ、彼女たちにあるものなのではないか?

そう考えた時、今まで自分がイランへ4度も赴き、
平気な顔で親類縁者の、見ず知らずの男性に握手の手を差し出していた事を思い出し、
今さら、冷や汗が出る思いであった。
握手をしてくれる人もいれば、中には自分の胸に手を当てて会釈をし、
私の手に触れなかった男性もいた。
その度に私は「敬意を払ってくれている」と自分の都合のいい様に解釈していた。
でも私が気づいていなかっただけで、実は
男性の後ろには、歯ぎしりする奥さんが私を密かに睨んでいたのではないか?
男性も「ホイホイ手を出しやがって、軽い女だ」と思っていたのではないか?
私には誘惑する気も、無礼を働く気もなかったけれど、
暗黙のルールを知らないばっかりに、多少なりとも相手に不快な思いをさせていたのではないか?

そんな事を考え始めると、自分がイランを、イラン人を分かっている様な気になっていたのが
とんでもない思い込みだった気がして来た。
オスカーの家族と心が通じている様に思っていた自分は、
本当は彼女や彼らに多大な迷惑を掛けていたのかも知れない。
皆笑顔で良くしてくれていたが、私の知らないところでは
「とんでもない世間知らずが来たもんだ!」と、
頭を抱えていたかもしれない。

オスカーにその不安を話すと、一笑に付されてしまったが、
アメリカに長年住んでいるオスカーの感覚もズレまくっているとしたらどうだろう?
2つの世界の常識は、全く別の物なのだから!
そして「私の常識」が、「皆の常識」と同じとは限らないのだから!


人間不信、自分不信になりそうである。
しかし、そういって投げ出してしまうわけにはいかない。
たった一人の、あの狂った女に、自分の人間観を崩されるほど、
私と、私の大切な人達との関係は浅くはないのだ!


できる限りのお手伝いをしようと努めていたら罵詈雑言を浴びせられた、
その日の夜に、オスカーはこう言った。
「それでも俺は諦めない。
人を助けるのはいい事だし、俺はそれが好きなんだ。
こういう変なヤツもいるかもしれないけど、
だからってもう人を助けるのは金輪際なし、って諦める気はない。」
それには私も同感なのだ。
生い立ちも、世代も、信仰も、全然違う私達二人だけれど、
最初から、そして今も、この人助けを良しとする価値観はピッタリ合うのだ。

オスカーが恩を仇で返された事など、数知れず。
私はこんな事一度くらいで、ピーピー鳴いているなんて、
まだまだひよっこだ。


最悪の中にも希望は必ずある。
この非生産的な状況から、素敵な事が起こった。
それは長男とオスカーの距離が一気に縮まった事。
オスカーは長男だからそうしていたのか、彼に厳しく、
今までほとんど一緒に行動することもなかった。
長男も、私には文句もワガママも言えるくせに、
「オスカーに言いなよ!」と私が言うと、全く言えないでいた。
ずっと長い間、二人の間には溝というか、距離があるなぁ、と感じていた私は、
どうにかして二人が歩み寄れないものか、と思っていた。
それが今回移民家族が来て、私が彼らをあちこちに連れて走り回っている間、
同行したくなかったばっかりに、長男はオスカーと一緒にいる、と言いだした。
そしてオスカーの仕事を手伝うようになった。
長男はずっと空手をしてきて、自宅でもちょくちょく筋トレをしている様な子なので、
私と同じくらいの、いや、もしかしたら私を凌ぐほどの力持ちになっている。
オスカーは長男に手伝いをさせてみて初めて、そのパワーに気づいたようだ。
その長男を「認めた」感が、始終伝わってくるのだ。
そして何より、それを長男が感じている事が、私にも感じられる。
親子の妙、こんな事で好転するとは!


親子と言えば、いまだに一つだけ、気がかりになっている事がある。
移民家族の双子の女の子である。
彼女たちは親の勝手で全く違う異国の地に連れてこられ、
あの母親の癇癪のせいで、夜の駐車場に取り残された。
一緒に過ごしたのは短い間だったけれど、11歳の彼女たちが、
必要以上に母親に気を遣って暮らしているのが気になった。

移民家族が滞在している間、丁度手に入った本を読んでいた。
それが西加奈子作、『サラバ!』上・下巻である。
saraba.jpg
(写真:ブクログより booklog.jp/users/gnvbunko

この物語も、イランで生まれた日本人の主人公が、
イラン→日本→エジプト→日本と、
両親に連れまわされる。
両親の人生に、子どもの人生が翻弄される。
目の前にいる双子の子ども達を見ていると、
そう思わずにはいられなかった。
良くも悪くも、親は子どもの人生を決めてしまう。
それを強く、感じた。

西加奈子の本は、必ず救いがあり、
最後に力強く 「それでも信じて行こう!」と、言ってくれている様な気がする。

選択肢のなかった子どもが、大人になって、
もがき苦しんでも、それでも何かを見つけて「信じること」ができればいいと思う。

あの双子が、どうか、強く生きて行けますように。

A Good Thing Happened! (いいことが起きたな!)

イランからの移民家族が到着して5日目。

アパートも決まり、彼らの生活の基盤はほぼ整った。
その日、RさんMさん夫婦は二人でマットレスを買いに出掛け、
戻ってくると、オスカーに「今日の夜7時までに受け取りに行かなければならない」と言った。

この時、オスカーの中で「これぞチャンス!」と閃いたアイデア。
トラックでマットレスを受け取りに行き、
同時にスーツケースから人間から、一切合財を詰め込んで、
引っ越しを済ませてしまおう、と。

私達は普通に仕事をして夕方6時に店を閉め、家に帰った。
オスカーが移民家族4人に
「よし、全部積んで引っ越しだ!」と宣言。
しばらくベッドルームでごそごそしていた後、Mさんが
「いやぁ、まだ皿も何もないし・・・今日引っ越さなくてもいいんだけど・・・」と
オスカーに言いに来た。
「いや、今日ならトラックも準備したし、マットレスと一緒に運んでやれるけど、
明日になったらまた忙しいから、今日できることはやってしまわないと!」
と押し切って、急き立てる様に準備をさせ、トラックと車2台に分かれてアパートへ。

荷物を全部運び込み、オスカーが「めでたい!めでたい!」と陽気に盛り上げ、
子どもも大人も、皆笑顔で嬉しそうにしていた。
そして皿や調理用具がないので、私が家族4人を最寄りのお店に連れていくことになり、
オスカーとうちの子ども達は先に家に帰ることになった。


移民家族4人を車に乗せ、走り出してしばらくすると、
Rさんが「えー!ここら辺て安全なの!?」と言い始めた。
どうやら、黒人が歩いているのを見て驚いたらしい。
「危ない地区ではないよ」と説明しながら、店に到着。
店内でも、お客さんや店員とすれ違っては
「また黒人!どうしてこんなに黒人ばっかりなの?
ここは危ないんじゃないの?」
と、言い続けるので、半ばあきれてしまい、
「アメリカは色々な人種がいるんだから、慣れるしかないよ」と言った。
するとRさんが露骨に嫌な顔をして、
「慣れろ、だって!」と吐き捨ててから、ペルシャ語でブツブツ文句を言いだした。

そこから彼女の機嫌が急降下していった。
私が寝具売り場でフルサイズのシーツを取ろうとしていたRさんに
「Rさん達が買ったマットレスはツインだからこっちだよ」と言うと、
私を睨み、夫にペルシャ語で文句を言っていた。
それを見た子ども達が気を遣って
「いいよ、いいよ、私はこっちの大きいほうでいいよ」と言うと、
Rさんは勝ち誇った顔で、私を振り返ってニヤリ。

あぁ、指図されていると思ってるんだ、気に入らないんだな、と分かったので、
少し距離を置いて、離れた所をウロウロしながら
家族が1時間ほど買い物をするのを見守った。

レジでお金を払う際、Mさんが小銭をポケットから出した。
それは片手いっぱい山盛りになるほど貯まっていて、
レジの人も「88セントでいいんだけど・・・」と苦笑しているので、
私が数えようと手を伸ばしたその時。
Rさんがサッと夫の手を.私から遠ざけて、
「私、わかるわよ!」 ピシャリと言った。
あまりの敵意にビックリしたが、そこでも何も言わずに、
出口脇で会計が終わるのを待った。
そして駐車場へ行き、トランクを開けて家族を手伝おうと思った、
その時だった。

Rさんが私の目の前に立ち、クルリッと私に背を向けたのだ。
まるで私をブロックするように。
これには私も黙っていられず、
「ねぇ、怒ってるの?私が何か悪いことした?」とRさんの背中に尋ねた。
キッと鋭い目つきで私を振り返ったRさんは、
「わかってるくせに。」と言う。
「全然わからないけど。」と返事をすると、私に対峙したRさんは突然、
耳を疑うようなことを言い放った。

「女はね、ほかの女に男を触ってほしくないのよ!
あたしの夫はすごくハンサムだから、
あんたがこの人を狙ってることくらい、わかってるわよ!」

私はあまりにも驚きすぎて、彼女が何を言っているのか理解できなかった。
しばらくして、レジでお金を数えるのを手伝おうと
私が手を伸ばした事を思い出し、あれが気に入らなかったのかも?
と思い当った。
しかしあまりにも理不尽なので、
「私達がこうして色々手伝っているのに、そういう言い方はあまりにも失礼だよ。
私たち、何も悪いことなんてしてないでしょう?」
と言った。

「言ってやろうか?あたし、言ってやるわよ!」とRさんがMさんに言い、
身を縮めて「言わなくていいよ、言うなよ」と小声で止める夫など気にも留めず、
そこから、Rさんが爆発した。

「あんたが私たち家族をうちに泊めたくなかったことくらい、わかってたわよ。
言葉で言われなくたって、毎日感じてたわ。
そういうところ、日本人はイラン人よりずっと酷いわね。
最初から、オスカーに「家に泊めるな」って言えばよかったのに、
それを言わなかった、あんたが全部悪いのよ!
それでいて裏でどうせオスカーにグチグチ言ってたんでしょ。
そういうやり方するあんたはBitchyよ!」
(注:Bワードは女性を蔑む、酷い言葉です。決して使ってはいけません。)

「あんたはパラノイアよ。
自分の旦那を横取りされると勝手に思い込んで、
あたし達が家にいるのが気に入らなかったんでしょ。
あんな年寄り、あたしの眼中にもないわよ!」
(注:オスカーはRさんの父親と同い年。私は彼女より年下だから、と思われます。)

「あんたがやったこと、全部、あたしのお父さんに言いつけてやるから。
もう二度と電話してこないで。
二度と私たちに関わらないで!」

そう言いながら、Rさんは車に積み込んでいた荷物を、
今度はカートに戻し始めた。
「何してるの?」と訊くと、
「あんたの車に乗っていくくらいなら、タクシー呼ぶわ!
早くここに、住所書きなさいよ!」
と紙を突き出してきた。

時間はもう夜の8時半を過ぎている。
さっきまで黒人が、危ない地区が、と大騒ぎしていたRさん。
怒りに我を忘れ、かなり大胆になっている。
何を言ってもダメなことは一目瞭然だったが、
脇に立っている双子の女の子は、
母親の言っている罵詈雑言がわかるので、
口を手で覆って顔面蒼白、オロオロしている。
その子どもたちを見た瞬間、どうにかしなければ、と思い、
「わかった。全部私のせいにしていいから。
私が全部悪いことにするから、車に乗ってアパートまで行こう。
そこで荷物を下ろして、私は帰るから。」
と、ヒステリックなRさんをなだめようと試みが、駄目だった。
黙っているMさんに向かってペルシャ語で
「危ないから・・・」と説明しようとすると、
「私の夫に話しかけないで!!」とRさんが叫ぶ。

カートを押して歩み去る家族に
「本当に乗って行かないの?」
と声を掛けたが、誇り高きイラン女性は家族を従えて
店の入り口の方へ行ってしまった。

ボー然としつつ車に乗り、オスカーに電話をかけて事の顛末を説明。
オスカーは私が冗談を言っていると思ったらしく、
何度も「ほんとに?ほんとに?」と言っていたが、
最後にはキレて
「そんな奴ら、ほったらかして帰ってこい!!」と言う。
「いいんだね、本当にいいんだね?」と何度か念を押した後、
イラン人家族を駐車場に残したまま、私は走り去った。


どんなに想像力を駆使しても予想だにしなかった展開に、
車の中で放心状態。
家にたどり着いた私の顔を見た瞬間に、オスカーが
「本当にごめん。悪かった。」と謝った。

滅多に謝ることのないオスカーが、
諸手を挙げて謝っているのを見て、ポロリと涙が出た。
そんな私を見て、長男が泣きそうになっていた。
「もう信じられないー!どういうことー!?」と笑いながら、
もう一度最初から説明して、
皆で「はー!?」ともう一度驚いた。

私 「なんか、悪いことしたっけ?」
オスカー 「いや、全然悪くない。こっちは手伝って、なにもかもしてやったじゃないか。」
私 「でも私が全部悪いことになってたよ。
  私が全部裏で糸を操って、酷い扱いをした、って言ってたよ。」
オスカー 「ありえない!頭が狂ってる!」

それから数時間して、オスカーが納得顔で言った。

A good thing happend!! (いいことが起きたな!)

いいこと、とはつまりこうだ。
もしアパートが決まらず、今日こうして強行引っ越しさせなければ、
あの狂った人達がどのくらい我が家に居座ったかわからない。
何週間、何か月たっても、のらりくらりといられても、
私もオスカーも「出ていけ」と言えるような人間じゃないから、
こうやって出て行ってくれたのは、なによりだった。
そして「もう連絡してくるな」と言ったのは相手であり、
おかげで、これから何もしてやる必要がなくなったじゃないか! と。

そうだけどー。
いいことって!

あたり強すぎだよー!

移民家族 アパートを探す

我が家に突然やって来たイランからの移民家族。

生活の立ち上げの課題を一つづつクリアしてきたが、
ついに本題、アパート探しだ。
本人たちも、何より定住の場所を見つけたいだろうし、
私達家族にとっても、できるだけ早く部屋が見つかってほしかった。

と言うのも、我が家は小さな家なので、寝室が2つしかなく、
移民家族4人にベッドを明け渡したので、
私達はリビングルームのソファーや床にゴロ寝していたのだ。

そんなわけで、彼らが到着した翌日からアパート探しを開始した。
しかし、ちょうど大学生が入居する時期でもあり、
移民家族が希望している値段の部屋探しは、難航するだろうと思えた。

そんな時、思いがけない朗報が舞い込んだ。

友人Sさんの父親が所有するアパートが空室になったと言うのだ。
「昨日空いたばかりだけど、見たい?」と声を掛けてくれたSさんは、
わざわざイラン人家族4人を迎えに来てくれ、部屋を見せに連れて行ってくれた。
Rさんは「私と娘2人が住むのだから、1ベッドルームで十分」
と言っていたのだが、Sさんのアパートは2ベッドルームだと言う。
値段も希望にピッタリだ。
しかもSさんは敷金・礼金なしでいいし、すぐにでも入居OK、と言ってくれた。

アパート内見から戻って来たRさんに早速「どうだった?」と訊くと、
「うーん」と、パッとしない表情で言葉を濁す。
しかしSさんが去った途端、
「すごく小さいアパートなのよ!あんな小さい部屋、見たことない!」
とRさんが言いだした。
子ども達も
「小さいし、汚い!」と口を揃えて言う。
Rさんは
「何年もほったらかしにして手入れをしてなかったみたい。
あんな部屋であの値段はあり得ない!」
と言うのである。

大学に近い立地で、決して高くないと思っていた私とオスカーにとっては
驚くべき発言だった。
もしかしたら前日に出て行った人が、掃除もろくにしなかったのかもしれない。
「じゃあ皆でもう一度、見に行ってみよう」とオスカーが言いだし、
仕事が終わった後、8人で車に乗り込み、もう一度アパートへ。

到着してみれば、その部屋はとてもいい部屋だった。
1階にキッチンとリビング、2階にベッドルームが2部屋あり、
掃除も綺麗にされていた。
「いい部屋じゃないか!」
「間取りもいいじゃないか!」
とベタ褒めするオスカー。
Rさんは苦笑いしている。
夫のMさんは「そうだよ、悪くないよ」とオスカーに同調ぎみ。
「これが酷いとおもうなら、他の物件も見てみればいい。
そうすればわかるはずだ」と、
オスカーが言って、決断は本人たちに委ねることにした。

帰りの車の中でRさんは助手席に座っている夫にヒソヒソ話。
その後、これ見よがしに
「あぁ、やっぱりテキサスに行こうかなぁ」と言い出した。
「テキサスに何があるんだ?テキサスに行ってどうするんだ?」
とオスカーが訊くと、
「旦那の妹の○○の・・・」と、遠い親戚がテキサスに住んでいる様な事を言う。
しかしそれ以上詳しい説明はせず、適当なことを言ってはぐらかしてしまった。

帰宅してからオスカーはイライラ。
「運転しているすぐ脇で、ヒソヒソ耳打ちしあったり、
突然テキサスに行くとか言いだしたり、何なんだあいつらは!」
Rさんもご立腹らしく、外へ出て行ってしまった。
私は急いで8人前のスパゲッティを作っていたので、
オスカーに様子を見に行くように頼むと、
Rさんは庭でタバコを吸っていたらしい。
しばらくして夫のMさんと二人で家に入って来て、
部屋を借りたいからSさんに電話してくれ、とオスカーに言っていた。
そしてまた、夕食も食べずに部屋の扉を閉めて寝てしまった。


アメリカに移住して来たばかりで、身元確認もよくできず、
クレジット・ヒストリーもないとなれば、アパートを探すのは簡単ではないはずだ。
もしRさんが「他を探す」と言い出して、
たとえ気に入った物件が見つかったとしても、すんなり入居できたかは疑問だ。
おそらく数か月分を前払いさせられるか、
オスカーが保証人になる、もしくはオスカー名義で借りるしか方法がない、
という展開になっていたのではないか、と想像する。

それに加えて、なんとRさん達はSさんに交渉して、マンスリー・レンタルにしてもらっていた。
「まぁ、3か月くらいはいると思うけど・・・わからないから」とかなり曖昧なのだ。
そんなワガママ放題な要望を受け入れてくれるアパートなんて、他にあるわけがない。
Sさんがオスカーの知り合いだからと、融通を利かせてくれていると思うと、
申し訳ない気持ちになって来た。
しかしRさん達は、そんな風には微塵も感じない様子で、
むしろ「住んでやるんだから」とでも言いたげな態度なのだ。


Sさんやオスカーがいない場所で、
「早くグリーンカード(永住権)が届かないかなぁ。
届いたらすぐにでもイランに帰りたいわ」と言っていたRさん。

じゃあなんで、永住権の抽選になんて応募したんだろう?
と内心思わずにいられない私だった。

渡米前にオスカーが冗談交じりで
「アメリカに来たからって、天国の様な生活が待ってるわけじゃないだから。
皿洗いでも何でもする覚悟で来なきゃダメなんだぞ!」
と電話で釘を刺したらしい。
その時は「わかってる、わかってる!」と笑っていたらしいのだが、
本当に、覚悟していたのだろうか?
旦那さんのMさんは、イランに戻って引き続き銀行で働くという、
ある意味無難な方法を取ることにしたわけだけど、
Rさんはアメリカで勉強し直す覚悟があったのではなかったのか?
やはり、移住と言うのは前もって覚悟しようにも、し切れないものなのかもしれない。
今までの暮らしのレベルを下げる、というのは、そう簡単なことではないのかもしれない。
結局、アメリカで生きて行こう、となんて、全然思ってないんじゃないか!

内心そうは思っても、もちろん相手に伝えるわけない。


こうして、皆がそれぞれ思う所がありながら、
どうにかアパートが決まった。
あとは引越しだ!


そうしてついに、その日がやって来る。

(つづく)

イランからの移民家族

アメリカ永住権が抽選で当たった家族がやって来た。

彼らのアメリカ到着は予想通り、スムーズにいかなかった。
7月4日の独立記念日に、我が家の最寄り空港に到着する予定だったのだが、
入国審査で質問攻めに遭い、時間を食ったらしい。
イラン人家族は当然乗り継ぎ便を逃し、
それを知らない我が旦那・オスカーは空港に迎えに行き、
彼らが降りてこなかったので心配していると、
翌朝飛ぶ便に変更してもらった、という連絡が夜中0時近くに入った。
その便は最寄り空港ではなく、我が家から片道2時間ほどの空港に到着する、
と言うので、翌朝6時半にオスカーが車をとばして4人を迎えに行った。


長旅の末、日曜日のお昼近くに、ようやく我が家にやってきた4人。
皆で到着を喜び、ランチを一緒に食べてお茶を飲んだ。

オスカーと私は事前に相談しておいた通り、まずイラン人家族に伝えた。
「この家を自分のものと思って、遠慮せずに使ってほしい。
冷蔵庫の物を好きに出して食べてくれればいい。
ただ、自分達は仕事があるので、ずっと一緒にいたり、
ご飯を作ったりはできないから、大したおもてなしはできないよ。」

奥さんのRさんと娘のMちゃん、Eちゃん(11歳の双子の女の子)は
思っていた以上に英語が話せるので助かった。
しかし夫のMさんは全く英語がわからない。

話してみると、彼らの計画はこうだった。
まず夫のMさんはアメリカ生活の基盤が整い次第、
単身イランへ帰って銀行の仕事を続けたいと思っていること。
Rさんはイランでは大卒だが、こちらではそれを認めてもらえないだろうから、
アメリカで学士号、または何らかの資格を取りたいと言う。
確かにこちらで大学を卒業すれば、就職の選択肢がぐんと拡がる。

本当はカリフォルニアに住みたい、と夫婦は言ったが、
オスカーがカリフォルニア州は生活費が高い事を伝えると、
大学が2つあるこの街で、ひとまず住む場所を探したいと言う。
しかし翌日には、Rさんが
「私が一人で年頃の娘二人を育てなければいけない!
夫は全然協力的じゃない!」と言い出し、夫婦は険悪なムード。
先の見通しが立たず、異国の地でのストレスがあるのはわかるが、
少々感情的だなぁ、と思わずにはいられなかった。


イラン家族が到着した日はちょうど、ワールドカップ女子サッカーの決勝戦の日だった。
テレビでは日本チームがアメリカチームと奮闘していたが、
その頃私は一人、台所でオーブンと格闘しながらカバーブを焼いていた。
イラン人家族は、と言えば、夕方6時頃に寝室に入ったきり出てこず、
結局我が家4人での普通の夕食となった。

まぁ時差ボケもあるだろうし、疲れているから仕方がないと思っていたが、
これ以降も連日、時差ぼけが治った頃になっても、
夕食時になると家族4人ベッドルームに入ってしまい、戸を閉めてしまう。
翌朝、「沢山作った夕食が冷蔵庫にあるから、好きな時に出して食べてね。」
と言って仕事に出かけるのだが、帰って来ると手を付けた形跡がない。
遠慮が得意なイラン人だから気を遣っているのだろう、と思い、
大人がダメなら子どもに、と双子に直接言うのだけれど、
どうやら両親に「食べるな」と言われているらしかった。

この双子の女の子はとても良い子達で、
「お手伝いすることある?」と気を使ってくれたり、
うちの息子たちとゲームをしたりして打ち解けていた。
絶対にお腹がすいているはずなので、かわいそうで仕方がない。
両親は3日目の朝から自分達で歩いて最寄りのスーパーに行き、
パンを1斤買って、寝室で食べたりしていた様だった。

ここまで来ると遠慮ではなく、もしかしたら私の料理が口に合わないのかも、
と思ってしまい、あまり無理強いもせずにいたが、
どうも食い違っている気がして仕方がなかった。


異国に到着したばかりの生活の立ち上げは色々と大変だ。
まず最初に、携帯電話がほしいというので、家族4人を連れてお店に行った。
クレジット社会のアメリカでは、何を買おうとしても
社会保障番号でクレジットを調べられる。
携帯電話のお店の人曰く、
彼らは社会保障番号も、フロリダ州発行の身分証明書(免許証など)もないので、契約ができない。
携帯電話本体をローンで買う事もできない、と言われた。
どうにか交渉し、私の免許証を提示して中古の携帯電話を現金で購入。
月々払いのプランに加入させてもらった。

次に家族4人は最寄りの銀行に口座を開設しに行った。
しかし、同じような理由と、住所確認ができない事から、
預金口座を開かせてもらえなかった、と帰ってきた。
これもオスカーが翌日一緒に銀行へ行き、どうにかこうにか交渉し、
永住権関係でアメリカ政府から届いた書類を使う事で口座開設に漕ぎ着けた。

この様に到着したばかりの移民は、色々な場面で選択肢がない。
自分も十数年前にアメリカに来た頃はそうだったのを覚えているし、
どこの骨ともわからない外国人との契約を渋る企業の言い分もわかる。
のだが、Rさんは違った。
携帯電話のお店では、
「なぜ自分の国から持ってきた電話は使えないのか」から始まり、
お店のお兄さんが中古の電話を安価で勧めてくれた時も、
「本当にこれは動くのか、動かなかったら返品できるのか」と尋ねていた。
銀行ではオスカーが交渉しているさなか、
「あたしの夫のMは、イランで銀行員なんだから!
銀行のルールなんてわかっているだから!」
と銀行員に食って掛かったと言う。
我が暴れん坊将軍・オスカーが、これに黙っているわけがなく、
「ちょっと待て。昨日ここに来て口座を開けなかったのは誰だ?
できなかったら俺が今来てるんだろう?ちょっと黙っててくれ!」
と言ったそうだ。


交渉事でなくても、Rさんとはコミュニケーションの取りにくさを日々感じた。
社会保障番号がないと不自由だと思い、
私が書類をプリントしてRさんに渡した際には、
「パスポートにあるこの入国スタンプがあれば働ける。」と言い張った。
私にはその情報が正しいかどうか、わからなかったが、
「そうなのかもしれないけど、買い物をするにも、運転免許証を取るにも、
社会保障番号は色々な場面で必要なので、
取っておいたほうがいいと思う」とだけ伝えておいた。
その数日後、イラン家族は4人で往復1時間かけて役所まで歩いて行った。
言ってくれればいつでも車に乗せて行ったのに、
私に「社会保障番号は必要ない!」と言った手前、頼みにくかったのかもしれない。

また電化製品売り場で、小さめだが2万円以下のテレビを物色していたRさんとMさんに、
「これは手頃の値段だね!」と言った時も、Rさんはすかさず
「イランの家にあるうちのテレビはね・・・」と
私を大きいテレビの前に連れて行き、メーカーが何かまで説明していた。
イランでは豊かな暮らしをしている、という事をアピールしたかったのだろう。
この様に、日に日に「張り合ってやる!」と言う気合を漂わせ、
こちらは免許証取得までの流れ、や
子ども達の学校に登録する方法、などの情報をお伝えしているだけなのだが、
「そんなことわかってる」
「イランでも同じ、イランにもある」
と返される事、度々。
私が勝手知ったる顔で色々言うのが、相当お気に召さなかったのだろう。

私はペルシャ語が半分くらいしかわからないので、それほど応えていなかったのだが、
オスカーは数日経ったこの頃から、Rさんにイライラし始めた。

とにかく、早くアパートを見つけなければ!

(つづく)

8人家族に?

アメリカ抽選永住権(Diversity Immigrant Visa Lottery)をご存知だろうか?

これは書類手続きをして当選すれば、アメリカの永住権が手に入る、という移民受け入れ制度だ。
「歴史的にアメリカへの移民率の低い国の人々が対象」とあり、
これには日本も含まれている。
高校卒業資格を有する者、または過去5年間に2年仕事に就いている者、
という応募資格はあるものの、広く開かれた門である。
アメリカはこの「抽選」という方法で、
毎年世界各国からの移民を50000人受け入れているのだ。

なぜ突然、こんな事を書き出したのか、と言うと、
知人でこの抽選永住権を取得した人が現れたからだ。

知人とは言っても、我が旦那・オスカーがその昔、
イランのとある村で小学校に一緒に通った同級生の、その娘。
つまり、他人である。
もちろん私は面識がなく、オスカーでさえ、その小学校の同級生とは
10年ほど前にイランに帰郷した時に再会した、という程度。
その娘となれば、本当に全然知らない人なのだ。

同級生はオスカーに「娘の移住の手続きを手伝ってくれ」と言ってきた。
アメリカ政府は当選者に対する補助は全く行っていない。
移民は、アメリカで生活保護を受ける必要がないことを証明する書類を
移住してくる前に提出しなければならない。
そこでオスカーに「扶養宣誓供述書」を準備してほしい、と言う。

それをしてしまうのが我が旦那。
(実際の書類を準備するのは、この私。)

その時点で送られてきた情報で、どうやら移住してくるのは4人という事実が発覚する。
オスカーの同級生の娘・Rさんと、その夫・Mさん、
そして双子の娘EちゃんとMちゃんは11歳。

うちの4人家族に加えて、もう4人を扶養できるほどの貯えなんて
到底提示できないぞ、と思いつつ、
半分やけくそ、半分開き直って準備できる書類を揃えて送ってやった。

すると、6月初めにビザが発給された、との連絡が入った。
そして「どうやら、ここに来るらしい・・・」とつぶやくオスカー。

この展開はどうだろう?
オスカーと暮らしてきて、急なお客さんや親類登場はよくあることなので、
もう慣れてしまったけれど、移住してくるとなると話は違う。

アメリカに来てどうするのか?
この街に住むのか?
仕事のあてはあるのか?
色々尋ねてほしいのだが、それも全くしないオスカー。
それどころかいつ到着するのかも、ハッキリ分からない状態であった。

そうこうしているうちに、6月も後半になったある日、
Rさん本人から直接メッセージが届いた。
彼女は英語が書ける=話せる、と言うことにまず一安心。
私は思い切って「いつ到着するの?」と訊き、
「フロリダで生活したいの?」と尋ねてみた。
そうして初めて7月4日の飛行機で家族4人がやってくる、ということが確定したのだった。

さぁて。
近くのホテルに滞在させればいいだろう、と言うオスカー。
しかしイラン人の(オスカーの)ことだから、ホテル代もうちが払って、
朝昼晩とご飯の心配をして、あちこちへ連れていく度にホテルへ送迎・・・
なんて事になるに違いない。
それなら、当座は我が家に泊まってもらい、サッサとアパートを探してもらった方がいいのでは?
などと、話しつつも、先方は何をどうしようとしているのか皆目見当つかず。
(オスカーに「訊いてくれ」と言っても何も進展しないので、もう諦めている。)


それにしても、家族4人で移住とは、なんという勇気!
私自身19歳の時に留学生として渡米したが、
守るものも失うものもない、身一つの若者だったわけで、
それとは随分わけが違う。
アメリカは新天地、とは言っても、小さい子ども2人がいて、
Rさんは30代後半、ご主人のMさんは40代前半。
しかもMさんはイランで銀行員をしているらしい。
そこそこ良い暮らしをしているはずだ。
それを全て投げ打って、0からの再スタート。
すごい思い切りだなぁ、と、私には信じがたい思いであった。

そんな人が毎年50000人もこの国に押し寄せているとは!


いやいや、感心している場合じゃない。
8人家族になるのだ。
この小さな家の人口が2倍になる、とはタダゴトではないぞ。
掃除が苦手な私なので、日頃のツケが溜まりに溜まっているわけである。
もちろん週末は連日大掃除。
大きい方のベッドルームから、私達の洋服をゴッソリ移動させて、
移民一家に使ってもらうことにした。
使い古しのシーツや枕カバーでは悪いので、急いで新しい寝具も購入。

結局こうして準備するのは、ぜーんぶ私なんじゃん!
と、ブツクサ言いながらも、どうにか4人が到着しても大丈夫な状態に持って行く事が出来た。
私ができる限りの準備を終えてしまえば、もう何でも来い!

この時は、本当にそう思っていたのだ・・・

(つづく)

開いた口が塞がらない、という状態

最近の、いやここ十数年の私は、
生きることに自信を持っていたと思う。

だいたいの勝手もわかって、
日々起こることもそれ程大差なく、
自分が考えている「世界像」の肯定の繰り返し、
生活ってこうだよな、
人間ってこうだよな、と
わかっているつもりだった。

例えば私は、どんな人が車屋のドアを開けて入ってきても、
笑顔で迎えられると思っていた。
そして私が心を開いた状態で話せば、
多かれ少なかれ、分かり合えるコミュニケーションが成り立つと思っていた。
「営業スマイル」だけでなく、自分が個人的に関わり合う人々とも、
こちらが気持ちよく接したい、と思ってさえいれば、
相手にもその友好的な気持ちが通じていくもの、と思っていた。

世の中には暗黙の了解があって、
皆、気持ちよく過ごせるように努めているものと思っていた。

運転中に罵られたこともあれば、
明らかに失礼な人もいるけれど、
それは通りすがりの他人が、ただ虫の居所が悪くて
そのとばっちりを食っただけ、と解釈することができていた。


だけれど、その「世界像」を崩されるような出来事が起こった。


今まで自分はぬるま湯に浸かった、居心地のいい場所にいて、
同じ事をしながら「そうそう、こんなもの」と思っていただけなのだな、と。
友好的な気持ちという形のないものは、
いくらこちらが持っていると自負していても、
簡単には通じていかないものなのかも知れない、と。
そして今まで「心が通じている」と思っていた人とも、
もしかしたらそれほど、通じ合っていないかったのかも、と。

とにかく、考えれば考えるほど、
自分が勘違いして生きてきたのではないのか?と思わされる出来事が、
起こってしまったのだ。

もったいぶって、何のことを言っているのかサッパリわからない、
煮え切らない文章になってしまっているのは承知の上なのだが、
自分の中でいま一つ、消化しきれていないので仕方がないのだ。

今回の出来事について、何回かに分けて、
順を追って書こうとは思っているのだけど、少々時間がかかるかも知れない。